光源寺について

 光源寺の沿革

天正13年(1585)僧善了開基。

古く歴史をさかのぼると、文治元年(1185)、壇の浦の戦いで敗れた平家の一族、伊地宗顕が、平家一族の菩提のために畑山中(「寺屋敷」とよばれている地)に草庵を結びました。やがて空地区の地(現代の光泉寺池)近くに移り、一宇を建立して光泉寺と号したといいます。

 本願寺が織田信長と10年たたかった石山合戦のおり、毛利氏が本願寺を助けたこともあって、安芸国に浄土真宗が浸透していきました。この大きな教化の波の中で、光泉寺の受玄法師は浄土真宗に帰依し、光源寺に入寺して第2代住職となります。寛文元年(1661)。広島仏護寺(今の本願寺広島別院)の末寺として、寺号を「海谷山光源寺」と公称しました。それ以来、光泉寺は廃寺となり、地蔵堂となって残っています。


   法物

 ご本尊阿弥陀如来立像は、大仏師康尭の作で、元禄6年(1693)、善西によって寄進されたもの。それまでは、現在保存されている第8代蓮如上人ご真筆の六字の名号「南無阿弥陀仏」をご本尊にしていたものと思われます。

本願寺第13代良如上人絵像、七高僧図像、聖徳太子絵像、親鸞聖人御真影などは、元禄から正徳年間(17世紀末~18世紀初頭)のもの。喚鐘は、元禄11年(1698)に市良右衛門が寄進したもの。また、親鸞聖人御絵伝は寛政3年(1791)のものです。現在の蓮如上人絵像は明治23年に本山より新しく迎えられました。


  伽藍

 現在の本堂は、文化14年(1817)3月に再建された総欅作りです。その規模は当初、桁と梁が7間と8間のものでした。

棟梁は坂の縫延新太郎。明治7年(1874)8月、高田小学校「日新舎」が本堂で開校され、明治9年(1876)2月に本堂南側に学校場が付設されて現在の姿になりました。初代校長は12代住職晃耀法師で、「午前8時昇校、午前3時降校之事」と書かれた板に、往時がしのばれます。

 庫裏は、本堂再建の6年後に建てられました。

 山門は弘化元年(1844)に、鐘楼は明治12年(1879)に建立されたもので、いずれも平成22年(2010)に大修復されました。太平洋戦争の時に梵鐘は供出されましたが、昭和25年(1950)蓮如上人450回大遠忌のおり、新たに奉献されました。

 経蔵は大正14年(1925)に建立され、仏典『大蔵経』全巻ののほか、古いものが納められています。


  伝統

 寛政9年(1797)から文化3年(1806)にかけて、宗門では信心の問題で「三業惑乱」という大騒動が起こりました。そのとおり能美島においては、住職も門信徒も共に平生より、み教えを聞いていこうという姿勢のもとに、お朝事(常朝事)が始まったようです。門信徒が毎朝住職とともにお勤めをし法話を聞くという習慣が、200年に以上わたって続けられています。